哀れなるものたち

 

哀れなるものたち』を見てきました。

 

 

自ら命を絶った若い妊婦が天才外科医のゴッドウィン・バクスターによって自らの胎児の脳を移植され、新たな生命を得た。ベラと名付けられた彼女は新生児としてゴッドウィンと助手のマックス・マッキャンドレスに育てられる中で好奇心を肥大化させ、世界を自分の目で見たいという欲望に駆られる。ベラは放蕩者の弁護士のダンカン・ウェダバーンの手を取って大陸横断の旅に出かけ、常識や偏見に捉われないまっさらな目で世界を見つめて、驚くべき成長を遂げていく。

 

R18だということをすっかり見落として面白そうだな〜と思っていたので、劇場の入り口で年齢確認をされてびっくりしました。そして、匂わせではなくはっきりと明確にそれと分かる性描写が多く、こちらは先ほどR18だと知ったばかりで心の準備ができていませんが!?と思いながら見ていました。

 

まず、エマ・ストーンの演技がすごかった。体当たりの性描写もさることながら、最初の方のベラの幼さから知性を獲得して成長していく姿も見事。場所ごとの撮影で、同時期に撮っていながらそれを演じ分けていたのだというのだからすごい。あと、独特な衣装や世界の造形もとても美しくて夢と悪夢の狭間という感じがした。

 

この映画は男性支配からの解放・自立みたいなフェミニズムの側面の色が濃いわけだけど、スパイスのようにところどころに施された皮肉が気になって、単純なフェミニズム讃歌として受け取るのは危険なのでは、と思った。

見て考えたことを書きます。ネタバレです。

 

 

 

 

 

男性支配と女性の主体性の物語

登場する男性たちとベラの関わり方は様々。

まず、ベラの創造主でもあるゴッドウィン。ゴッドウィンは父によって施された実験(という名の暴力)によって機能不全に陥っており、ベラに対しては父性的な愛で接する。当初はベラを囲って育てること、そしてベラの夫を決めてやることが「良いこと」だと考えており、そこに家父長制的な価値観が見えるように思う。

 

それから、ゴッドの助手となりベラを観察するようになったマックス。マックスは初めて出会った時にベラを「美しい白痴」と表現する。そして、ベラの無垢さ・幼さを愛するようになるが、それに起因するベラの親愛を勘違いしているのではないかと思った。成人した大人が未成年の子供を搾取するようなものに近いところがあると思う。でも、ベラが娼婦の経験を経て戻り「娼婦であることは男性の所有欲を危うくさせるの?」というようなことを言った際に、自分の体だから自分の好きにしていいという答えを与えたのはすごいなと思った。とても良いシーンだった。

 

そして、ベラを世界旅行に誘う弁護士のダンカン。幼いベラにつけ入り搾取しようとするダンカンは古典的な男性支配の象徴だと思う。ベラが好奇心のまま動き回ることに対して不安を抱き、規制して囲い込もうとしたり(ベラが街を好きに歩き回るので騙して豪華客船に閉じ込めるという流れはベラがいつか自分に何も言わないまま出て行って二度と戻ってこないことへの不安からくる行動だったのかもしれないと思った)ベラが本を読んで知識を得ている時には「近頃本を読んでばかりで愛らしい喋り方が失われていく」と言ってベラの行動を制御し未熟なままに押し留めようとしたり。以前と同じように性行為に及ぼうとするも、ベラは成長しているので以前と同じことを同じように楽しむとはいかず、前に進んでいるベラに対してダンカンだけが取り残される形に。また、ベラが娼婦になった際にはひどい拒否反応を示し自分の方から去ったにも関わらず、ベラを追い回し、愛を乞い、自分を騙した悪魔であると罵り、身を滅ぼしていく。男性支配の象徴のようなダンカンが立場を逆転させ、身を滅ぼしていく姿は痛快でもあった。

 

また、ベラが船で出会った老婦人のマーサの同伴男性のハリー。ハリーはベラと知的な親交を結び、性的な関係にはならない稀有な人物。ハリーはベラにこの世の真実として客船の外側の世界を見せるという点で大きな役割を果たす。恵まれた世界の外側で飢え渇き死んでいく子供達を見たベラは落差にひどくショックを受け、傷つき悲しむ。ハリーは後ほどベラに「傷つけたかったんだ」と話すのだけど、本当の痛みや差別などを知らないまま、書物で得た知識を持って高邁な理想を語ってきたベラに対して「傷つけたい」「理想を打ち砕くような現実を見せてやりたい」と思ったのだろうなと思う。

 

最後に、ベラが生まれ変わる前の姿のヴィクトリアの夫であるブレシントン将軍。ブレシントン将軍は男も女も関係なく執事やメイドも暴力で言うことを聞かせ、ベラに対しても銃を持って脅す、暴力によって他人を従わせようとする人物。性別関係なく銃によって従わせる暴力的な将軍は、ダンカンが可愛く見えるほどの救いのなさ。そこから逃れようとしたヴィクトリアは死を選ぶしかなかった。そんな暴力的な将軍を止める方法が暴力(自身の銃で足を撃ち抜くこと)であり、また性格を改善させる方法も暴力(脳の中身を入れ替えること)だったのは当然の流れであると思うのと同時にこの世の虚しさも詰まっている気がする。

 

数々の男性との関わりの中で、ベラが知性を身につけ、主体性を獲得し自立する様子には目の眩むような眩しさがあった。ただ、自力で稼ぐために女性性を用いる仕事をするという事は皮肉だなと思った。

 

 

 

 

 

裕福な人間の資本主義的な物語

ベラが自分がいる場所を飛び出して世界を見た後に、元々いた場所に戻ってきて、その後の進路に向けて動く、という構図は海外でよくある就職前のモラトリアム時間そのものなのではないか、と思う。世界を見ること、その猶予はお金によってもたらされ、お金がなければそんなことはできない。それはお金が底を尽きた時に容赦なく客船から降ろされる様子からも窺い知れる。前提としてこれは裕福な人間の特権的な立場によってできた冒険なのだと思う。

 

それから、ベラが自分たちの恵まれた世界の外側で飢え渇き死んでいく子供達を見せられ、ショックを受けるシーン。そこでベラはダンカンが賭け事で儲けたお金をかき集めてその人たちに渡そうとする。それって焼石に水でその瞬間だけの助けにしかならないのでは、と思ったけれど、よく考えてみたらその瞬間の助けにもならないのではないかと思う。灼熱の中で飢え乾いている人間に札束を渡してどうなるんだろう?貨幣が価値を持つのは、交換対象があればこそ。つまり、水や食料があって、それを得るために貨幣が役立つのだけど、ベラたちの見たあの外の世界に水や食料が存在しているかは疑わしい。それほどの惨状だった。とすれば、札束はもし届いたとしてもただの紙切れでしかなかったのでは?ベラがお金がないから飢えている→お金があればいいと考えたのは資本主義の世界で暮らしてきたから出た結論なのだと思う。そして、恵まれてきたからこそ簡単に大金を手放すことができるし、それを横取りしようとする人間がいるとは夢にも思わない。恵まれてきたことに気づいたからこそ、それを是正するために行動しようとするのだけど、その行動の根拠となる考え方が恵まれた環境によって生まれたもので、どうしたって自分の特権的なバックグラウンドから抜け出せないという皮肉。

 

 

 

 

 

ベラの倫理観の物語

ラストシーンで将軍は「メェー」と鳴き、四つん這いでバクスター家の庭の低い木の葉をむしゃむしゃ食べていて、将軍の頭には縫い痕が残っている。おそらく将軍の頭の中に山羊の脳を入れたのだろうなと思うのだけど、ベラとマックスが「解剖学の試験緊張する」「練習したから大丈夫」という話をしているところから、これはベラが手術したのだと考えられる。ベラ自身もその後実験体となったフェリシティも死体を作り変えたものであった(はず)だけど、それは生きている人間の脳を作り変えるということがゴッドやマックスの倫理観に背くからだったのではないかと思う。でも、ベラは倫理観があまり成長していないからこそそういうことを成し得たのでは?そう考えると、モラトリアム旅行をして世界を見て知識を得ても人間の倫理は成長しないという皮肉が込められているようにも思える。ベラは自分の体の事実を知った際にゴッドとマックスを「モンスター」と呼んでおり、事の異常さを理解しているのだから倫理観が未熟とは言い切れないかもしれないけど。

 

ベラの倫理観は途中までは未熟であることが窺える。性的な言葉を口に出すことに躊躇いがないことや自分の感性に正直で美味しくないものは吐き出すこと、ダンカンがお世話になったマーサに対して「殺す」と言っていても笑顔で嬉しそうに見ていること、結婚式の最中でも新郎を置いて他の男のところへ行ってしまうことなど数々の場面に現れている。ただ後半においてはどの程度の成熟したかは分からない。世間の偏見や常識、倫理と無縁だからこそ、どこまでも自由にフラットに世界を見ることができるけれど、それゆえに一線を簡単に超えてしまう危うさも孕んでいると思う。

 

ベラは将軍を再教育するというような話をしていたことから再教育のために山羊の脳を入れたとも考えられる。しかし、もしかしたら人間の機能の体に山羊の脳を入れたらどうなるのだろうという単純な好奇心から来る実験の気持ちもあったのかもしれないと思った。そして、暴力的だった将軍が山羊の脳を入れることで180度変わったとしたら、医療によって世界を変え得ると思ったのではないだろうか。マッドサイエンティスト的な方向性で。

 

いずれにしても父→ゴッド、ゴッド→ベラと繋がってきた、他人の体を改造する流れはベラ→将軍となり、行為者が女性となったことで女性が力を持ったことを暗喩している気もする。だけど、結局のところ他人の体を勝手にいじっているわけで「自分の体は自分の意思で好きにしていい」という話に反することだと思う。これって男性だろうと女性だろうと他人の体を勝手にいじるのは良くないという逆説的な表現なのではないか、と思った。女性が主体性を獲得し男性の代わりに女性が力を持つ、単純な男性支配社会の逆転になってしまってはいけない。『Barbie』の映画で女性支配の社会から真逆の男性支配へ振り切っていく描写があったけれど、それと同じことで男性支配から抜け出しても真逆の女性支配の方向へ振り切って行くのも危険であるという警鐘なのでは。中庸が大切。すべては将軍の頭の中身を変えたのはベラではないかという推測に基づく想像ですが。

 

 

 

 

 

哀れなるものたち

結局最後はハッピーエンドなんだろうか、ということをここ数日考えていたのだけど、きっとある意味ではハッピーエンドなんだと思う。

ゴッドの遺産を受け継いで家も財産もあり不自由なく暮らすことができ、「自分の体は自分の意思で好きにしていい」と考えている良き理解者のマックス、理想を語ることのできるトワネットがそばにいて、世界を変え得るかもしれない医療について学んでいる。外側の世界に目を瞑り、外は何も変わらないままで、自分は変わっていく。ある意味ではハッピーエンドなのだけど、それって特権的なハッピーエンドだよねと思う。

 

だけど、一個人は世界に対して圧倒的に無力で、ベラは他にどうやって何を成し得るのだろうとも思う。痛みを知ったまま、それを抱えたままで、でも自分にできる小さなことしかできないから、小さく進んでいくしかない。無力を痛感しながらも歩みを止めないことしか。それは人間の主観からすると勇気づけられることでもあるのだけど、俯瞰して見ると哀れなのかもしれない。「人間という生き物」はこの約46億年前に誕生した地球上で生まれてまだ20万年程度のちっぽけな存在でしかなく、どうしたって自分のバックグラウンドから抜け出せなかったり結局は何も成し得なかったり圧倒的に無力なのに、壮大な希望と高邁な理想を胸に抱いて歩み続ける。それって遠目に見たら哀れなのかも。でも、わたし達はどうしたって「人間という生き物」だから、そうやって生きていくしかないのだけどね。